その男は渇望していた。最初の一匹を。
時折霧雨が舞う中、ぐるりと池を取り囲むように30人ほどの釣り人が、一心に湖面をみつめる。ここは宮城アングラーズビレッジ、群馬だけど宮城アングラーズビレッジ。釣り糸を垂れて早一時間、男には未だヒットがない。何度かあったアタリの感触を求め、神経を指先に集中させる。隣では、半世紀近く年下のキッズが、次々とヒットを重ねる。キャッキャキャッキャと喜びの輪に男も足を踏み入れ、一緒に喜ぶ素ぶりはできても、ヒットとノーヒットの厚い壁が、両側から押し迫る時限装置のように、刻々と男を追い詰めていった。時間だけが過ぎる。
その男は渇望していた。とにかく最初の一匹を。
13時を過ぎ、一旦昼休憩となった。結局ここまでヒットはない。大串を手に、カメラを向けられれば笑顔はつくれるが、心は笑っていない。もちろん目も、いつにも増して笑っていない。ランチをしながらのなごやかな談笑も、分厚いアクリルの壁一枚隔てたように、どこか虚ろに男に響いた。これほどまでに何かを求めることがあっただろうか、と男は思いを巡らせる。達郎もポールもジミヘンも、ここまで男を駆り立てたりはしなかった。目を閉じると、そこにはバスを釣り上げたもう一人の自分がいた。肩を落としている場合ではない、閉じこもっている場合ではない。男は無言で立ち上がると、外へ出た。
それは突然やってきた。
文字通り糸を手繰り寄せる。今こそ、慎重に、慎重に。天使が耳元でそう囁いても、リールを巻く筋肉を支配する悪魔が、制御を許さない。早く、早く、、、。いやが応にも力が入る。水面から獲物の口元がぼんやり浮かび上がってきた瞬間、男の全身から力が抜け落ちていった。喜びというより、安堵のやわらかな熱が、じんわりと全身に満ちる。その時強く降り出した雨は、男の涙だったのかもしれない。迂闊にも滲んだ目元も、雨でごまかせたはずだろう。その日、男は悟ったのだ。追いつめられ、追い詰められ、とことん追い詰められてから克服する瞬間に、生きる手応えがあるのだと。
男のこれほどの満面の笑みを、私は知らない。